中原中也「山羊の歌」覚え書き
2009年の夏に中原中也「山羊の歌」のいくつかの詩に作曲した.その際考えたことや,後から気になって調べたことをまとめておきたい.
1.長谷川泰子
「山羊の歌」は中也が27歳の時の刊行だが,
序でだから云ふが、『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。(「在りし日の歌」後記)
とあるから,収められている詩は中也が17歳から22歳ごろに作ったものである.これらの作品を理解するには,長谷川泰子という女性について知る必要がある.中也は17歳で泰子と知り合って同棲し一緒に上京するも,東京で知り合った小林秀雄に彼女を取られてしまう.そのような出来事が,多感な十代の詩人の作品に影響を与えないはずはない.
中也は故郷の山口中学に優秀な成績で入学したものの,文学にのめり込みすぎて落第し,15歳で立命館中学に転校させられる.京都で暮らしていた中也は,あるとき知人に連れられて劇団の練習風景を見に行き,そこで長谷川泰子と遭った.泰子は次のように書いている.
ところで,中原に初めて出会ったのは、京都の表現座という小劇団の稽古場でした。俳優志望の私は、とにもかくにも新劇をやりたくて、勘当同然の身で郷里の広島から東京へ出たのですが、上京して一ヵ月、関東大震災に会い、身の置き場もなく京都へ逃げのびて表現座の一員になっていました。たしか劇団員になって間もなくのある日、中原は知人を頼ってそこに現れたように思います。大正十三年でしたから、私が二十歳、中原はまだ中学生で私よりも三つ年下だから、十七歳でした。(「中也・愛と訣れ」1976)
中也が当時傾倒していたダダの詩を見せたところ,泰子が興味を示したことがきっかけで二人はつき合うようになった.しかし,その後,劇団が解散してしまい寝泊まりする場所にも困っているところへ中也から「ぼくの部屋に来てもいいよ」と言われ,泰子は中也との同棲を始めるのである.
考えてみれば思い切った向こうみずなことだったかもしれません。でも他にどうすることもできない私は、その親切心だけを信じて、そこへ移るしかなかったのです。その当時、中原の下宿は、京都の北野大将軍西町にありました。そこで私たち二人の奇妙な共同生活が始まったわけです。(「中也・愛と訣れ」1976)
72歳の泰子は淡々と過去を語るが,実際はそれほど単純でもなかったようだ.
(泰子が)河原町の喫茶店で、中原が詩を朗読するのを賞めたら、「おれの詩をわかるのは、君だけだ」と喜んださうである。彼女の貸間へ来て、「殆ど強姦されちやったやうなものだよ」と彼女はいつている。(大岡昇平『朝の歌 中原中也傳』1966)
当時17歳の中也がどう思っていたかはよくわからないが,20歳の泰子にとって三つ年下の中也はおそらく子供にしか見えなかっただろう.泰子は「中原との間に烈しい身を焦がすような恋愛感情とか、そこはかとない甘いロマンチックな交情がなかった」と言っている.宿代がわりに賄いや洗濯と割り切っていたのかとも思うが,泰子は家事が苦手だったらしい.どうもよくわからない奇妙な共同生活だ.
この同棲生活は約1年続き,中也の中学卒業を機に二人は東京に移り住む.そこで中也は小林秀雄と知り合い,頻繁に文学上の議論を交わすようになるのだが,そうこうする間に泰子の気持ちが小林秀雄に移ってしまう.
そのように小林が出入りしている間に、自然と私は、中原に内緒で小林と会うようになったのです。内緒といいながら私のほうには別にどうという感情もなかったのですが、「あなたは中原とは思想があい、ぼくとは気があうのだ」と言われると、やはり心にわだかまっていたものが明らかになったようです。(「中也・愛と訣れ」1976)
もともと好きでたまらなくて、中原と一緒に住んでいたんじゃありません。置いてやるというから、私はなんとなく同居人として住まわせてもらっていたんだから、中原と別れて行くときも、身につまされるものはありませんでした。(「中原中也との愛―ゆきてかへらぬ」1974)
この出来事は18歳の中也にとっては大事件であり,それは当時作られた多くの詩に影を落としている.
「サーカス」は中也の詩の中でも最も有名なものの一つだが,一見平易なサーカスの情景描写のように見えて,よく考えるとまるで意味がわからない.
第一次大戦が終わって十年経ち,戦争の記憶もセピア色の写真のように薄れて茶色い戦争と表現されているのだろうか.厳しい戦争の時代が去って今はサーカスを楽しめる平和な時代になったというのだろうか.「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」は,もちろん空中ブランコの揺れる様子だ.それを照らすライトの光がリボンのようにゆらゆらしている.観客が全員頭上を見上げて待ち構える中,曲芸師の体が宙を舞い,みんなが息を飲んだかと思うと牡蠣殻をこするような割れんばかりの拍手がそれに続く.サーカスが終わり,夜道を帰りながらも「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」と,空中ブランコの興奮がまだ醒めない.
と,こんな雰囲気だが何か変だ.倒さ,汚れ,安値い,真ッ闇,落下.否定的な言葉ばかりが続く.
実は,この詩には泰子のことが隠されている.「サーカス」の初稿は,おそらく1926年の春ごろ.前年11月に泰子が小林のもとに去ってからも中也は小林との交流を続け,時には小林宅のパーティーにも参加したようである.そのパーティーの様子を歌った詩なのだ.
中也の過去には小林との間で泰子の取り合いという茶色い戦争があった.人肌恋しい寒い一冬が過ぎ,今夜は小林宅でのパーティーだ.小汚く感じる小林宅の屋根の下,「ゆあーん ゆよーん」と揺れているのは泰子のはっきりしない態度.その近くの小林秀雄が安値いタバコでもふかしているんだろうか.酒を飲みながら中也と泰子の間で「もう一度オレんとこ戻って来いよ」「どうしよっかね」なんて本気とも冗談ともつかない会話が交わされたかどうかは知らないけれど,それをニヤニヤと見守る他の参加者の様子まで伝わって来るような気がする.夜も更けて,けっきょく中也は一人小林宅を去ることになる.外も,自分の心も真ッ闇.負け犬が,未練がましく思い起こすのは「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」.
こういう解釈は,筆者の発明ではない.「サーカス」が泰子を歌った詩だとする解釈は,たとえば太田静一が行っている(「中原中也『山羊の歌』全釈」1996).それどころか,「サーカス」に限らず『山羊の歌』の詩はすべて泰子のことを歌っているのだ,と太田は言うのだが,それはいくらなんでも行き過ぎだろう.それに,太田は,泰子を美化しすぎている.
中原中也と小林秀雄はいずれも文学史に名を残す人物だ.そんな二人が一人の女性をめぐって争ったと言えば,どれほどすばらしい女性だったのだろうと考えるのが普通だろう.筆者も最初は,クララ・シューマンのような才能溢れる女性を想像しながら資料を読み始めた.しかし,表現座が解散した後に入った劇団では役がつかないときのほうが多かったと言う泰子が女優としての才能を大して持ち合わせていなかったのは明らかだ.中也が詠んで聞かせた詩もちゃんと理解していたわけではなく,「直感的に受け止めていた」と言っている.彼女は中也の文学上の良き理解者ということでは全然なかったようだ.
2.小林秀雄
中也にとって唯一彼の詩を熱心に聞いてくれる泰子がそばにいて欲しい存在だったのは理解出来るとしても,小林秀雄はなぜ泰子に「一緒に住もう」と誘ったのだろうか.小林秀雄のことはよく調べていないので,これは邪推だが,実は,小林は中也に嫉妬したのではないか.
小林秀雄が中也と知り合ったのは1925年4月.小林が23歳で東京帝国大学文学部に入学したての頃だ.今も東大の大学院生と言えばエリートだが,当時は定員も今よりずっと少なく,小林はエリート中のエリートだったはず.そこへ山口の田舎から18歳の中也がやって来て,偉そうに文学についての議論をするわけだ.小林に鼻であしらわれておしまいでもおかしくはない.が,そうはならなかった.中也の才能が本物であることは明らかだった.特に,創作に関しては,小林は5つ年下の中也に全くかなわない.そのことが,東京帝国大学文学部エリートの小林のプライドを傷つけないはずはない.そして,それに追い打ちをかけたのが,「中也には女がいて小林にはいない」という事実だったのではないか.それが小林には許せなかったのではないだろうか.
小林秀雄が中也の才能を高く評価していたことは明らかだ.中也の死後すぐ次のように書いている.
先日、中原中也が死んだ。夭折したが彼は一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもからいろいろな事を言われ乍ら、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。事変の騒ぎの中で、世間からも文壇からも顧みられず、何処かで鼠でも死ぬ様に死んだ。時代病や政治病の患者等が充満しているなかで、孤独病を患って死ぬのには、どのくらいの抒情の深さが必要であったか、...(「中原中也」1937)
また,次のようにも書いている.
ああ、死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉が言えようか
君に取返しのつかぬ事をして了ったあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃったああ、死んだ中原
例えばあの赤茶けた雲に乗って行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば (「死んだ中原」1937)
これは,まるで懺悔ではないか.後に発表した「中原中也の思い出」(1949)では次のように書いている.
中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌わしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。
惚れた女を友人から奪ったことが「悪夢」なのではない.それを本心ではなく嫉妬心からしてしまったことが「忌わしい」のではないのか.泰子の手前そう告白するわけにもいかないから言葉を濁しているだけではないのか.
2年半の同棲生活で小林は泰子に振り回された挙げ句,最後は「心中するか逃げだすかだ」という心境にまでなっていた.ある夜喧嘩して泰子が「出て行け」と叫ぶと,夜中の2時にもかかわらず小林は身一つで出て行ってしまったと言う.
さて,小林からひどい仕打ちを受けた中也だが,死ぬ前に「在りし日の歌」の原稿を託したのは他ならぬ小林秀雄だった.
死ぬ三週間ほど前、彼は「山羊の歌」以後の詩で詩集に纏めて遺そうとするものを全部清書し、「在りし日の歌」なる題を付し、目次を作り後記まで書いて僕に託した。(「中原の遺稿」1937)
けっきょく,中也にとっては詩は女以上に大切なものであり,そして,皮肉なことに,中也の詩を誰よりもよく理解していたのは小林秀雄だったということなのだろう.
3.中原中也
中原中也は1907年に山口県で生まれる.中原家としては40数年ぶりの子供で,「生まれる前から、もてはやされて、生まれてきた子供」であった.小学校時代,中也の予習復習は母親が指導し,父親がきびしく監励した.怠けると納屋に一晩中おしこめられることもあった.悪いことを覚えるといけないという理由で近くの子どもと遊ぶことを禁じられ,また,溺れるといけないということで川に泳ぎに行くことも禁止されていたと言う.中也は,勉強ばかり強要する親にうんざりしていたようだ.
中也は期待に応えて名門山口中学に12番の好成績で入学するも,興味があった文学に耽溺するようになり,次第に学校の成績が下がって3年の時に落第する.せまい田舎町で,かつての神童の失墜は両親には恥だったようで,父親は世間体を気にして中也を京都立命館中学に転校させる.以後,中也が父親から認められることはなかった.中也の父は中也が21歳の時に亡くなるが,中也は葬儀にさえ参列させてもらえなかった.生活費だけはくれてやる,お前なんか中原家の恥だから山口に帰って来るなと放り出された15歳の中也の胸中はどんなものだっただろうか.
人が安心して生きて行くためには,どこかで誰かに認めてもらっているというような,何か心のよりどころとなるものが必要だ.中也はそれを自恃と呼ぶ.
これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。人には自恃があればよい!
その余はすべてなるまゝだ……自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。 (「盲目の秋II」より)
普通に親の愛情の下で育った者には空気のように当たり前すぎてわからないが,親から存在を否定された中也には自恃が必要だった.誰かに認められなければ,存在している理由がなかった.中也は,ダダの詩に出会うと,これだと詩作に没頭する.そうして出来た詩に興味を示してくれたのが長谷川泰子だったというわけだ.18歳の中也は詩作に関する自信と大きな野心を持って上京したことだろう.しかし,目指した早稲田大学予科には合格できず,泰子にも逃げられる.
もし小林秀雄が中也の才能に嫉妬したのだとしたら,中也にイジワルをするのはごく簡単なことだっただろう.「君は作詩の素質はあるようだが,勉強が足りないね.偉大な詩人なら,当然○○や○○ぐらいは読んでいるものだよ」の一撃で,中也の自信は木っ端微塵だ.もしその気になれば,泰子に,「あんな落ちこぼれ詩人のところにいないで,オレのところに来たら生活は安定だし,惨めな思いをせずにすむよ」と迫って泰子を寝返らせば,中也の息の根を止めることだって可能だっただろう.
中也が,その頃のことを書き記した「我が生活」という未発表原稿がある.
私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はたゞもう口惜(くや)しくなるのだつた。――このことは今になつてやうやく分るのだが、そのために私は甞ての日の自己統一の平和を、失つたのであつた。全然、私は失つたのであつた。一つにはだいたい私がそれまでに殆んど読書らしい読書をしてゐず、術語だの伝統だのまた慣用形象などに就いて知る所殆んど皆無であつたのでその口惜しさに遇つて自己を失つたのでもあつたゞらう。
とにかく私は自己を失つた! 而も私は自己を失つたとはその時分つてはゐなかつたのである! 私はたゞもう口惜しかつた。私は「口惜しき人」であつた。
よほど悔しい思いをしたと見えて,執拗に「口惜しい」を繰り返している.
だが私は口惜しい儘に、毎日市内をホツツキ歩いた。朝起きるとから、――下宿には眠りに帰るばかりだつた。
親からは存在価値のない出来損ないのような扱いを受け,唯一自分を支えていた詩作に関する自信も消失して,いよいよ何もなくなった中也がどん底から再び詩作に立ち向かう.その最初の作品が,「朝の歌」である.
|
雨戸の隙間から明るい日の光が天井に差し込んでいる.もう日は高いのに,昔のことを想い出してうつらうつらするばかり.しないといけない用事もない.朝の小鳥たちの囁きはとっくに終わって,外は青空のようだ.しかし,「いつまでだらだら寝てるのよ」と叱る人もいない.木の香りが漂って来るのを感じながら,失った昔の夢を想い出す.木々が風に鳴る音が聴こえる.そう,あれは広くて大きな空だった.あれもできるこれもできると大きな希望を抱いていたんだ.でも,美しいさまざまの夢は,夕空が土手の向こうに沈むように消え去ってしまった.
朝いつまでも布団でごろごろしながら昔のことをくよくよ想い出している状況を歌った詩なのに,全然暗い感じがしないのは,それが良いとか悪いとかいった判断が含まれていないからだ.善悪判断が入る以前の心の状態を,そのまま切り取って歌った詩なのだ.詩は,もはや中也が世界に立ち向かうための道具ではなく,中也自身を表すための手段になったのだ.
詩の出来不出来なぞ元来この詩人には大した意味はない。それほど、詩は彼の生ま身の様なものになっていた。どんな切れっぱしにも彼自身があった。(小林秀雄「中也の遺稿」1937)
今日多くの読者に親しまれ愛されている中也の詩は,この「朝の歌」以後に作られたものだ.
2012.3.16